遅れではなく、忍耐

信仰でいちばんつらいのは、たいてい危機そのものではありません。時計の針です。
世を見渡すと、時の流れが狂ってしまったように思えます。人々はあざ笑います。この混乱を眺めながら問うのです。「神はどこにいるのか。これを正すために帰って来ると言うなら、なぜいまだに姿を見せないのか」と。
古くからある問いです。初代教会の人々も、すでに同じことを口にしていました。
確かに、遅れているように見えます。けれども神は、私たちのように時を過ごしてはおられません。時計をご覧になっているのではなく、人の心をご覧になっているのです。
では、なぜこれほど長く待たれるのでしょうか。よそ見をしておられるからではありません。約束を忘れ、投げやりにしておられるからでもありません。理由は単純で、胸が痛くなるほど美しいものです。神が、忍耐しておられるからです。
ここでペテロは、二つの言葉を並べて置いています。(bradynō) βραδύνω —「遅れる、手間取る」と、(makrothymeō) μακροθυμέω —「ながく忍耐する」。口語訳はこの二つを、「約束の実行をおそくしておられるのではない」と「ながく忍耐しておられる」と訳し分けています。見えているのは遅れではなく、忍耐なのです。
神は、戸を開けたまま待っていてくださいます。
天が裂けずに過ぎていく一秒一秒が、あわれみのわざです。もうひとりが福音を聞けるように、神は時を延ばしておられます。だれかの始まりを用意するために、終わりを遅らせておられるのです。
この遅れは力の欠けではありません。そこに恵みが働いている、そのしるしです。
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