神がダビデを喜ばれた理由

神が私たちを愛しておられることは、だれもが知っています。けれども、「愛されている」ことと「喜ばれている」こととの間には、はっきりとした違いがあります。
ダビデは歴代志上 28:4 で、はっとさせられることを口にしました。
ここで使われているヘブライ語は、(ハーフェツ) חָפֵץ —「喜びとする、心にかなう」という語です。ただ「愛する」を意味する (アーハブ) אָהַב とは別の言葉で、口語訳はこれを「喜んで」と訳し分けています。神はダビデを愛されただけではありません。ダビデを、喜ばれたのです。
だからこそ神は、彼を「わたしの心にかなった人」と呼ばれました。なぜでしょうか。ダビデの秘密は、どこにあったのでしょうか。
悔い改めが早かったからだ、と言う人がいます。けれども聖書には、悔い改めた人なら数え切れないほど登場します。それでいて、この呼び名を与えられた人はほかにいません。竪琴の才でしょうか。戦場での勇敢さでしょうか。
私は、若き日からダビデを離さなかった、ただ一つの渇きにその答えがあると思うのです。サウル王が、契約の箱を二十年ものあいだ一軒の家に置いたまま、埃をかぶらせて平気でいたとき、ダビデはそれを都へ迎えるまで、夜も眠れませんでした。
ダビデの心を占めていたのは、ほかでもない神のご臨在だったのです。
契約の箱は、主イエスを指し示す姿です。ダビデが求めたのは王座ではなく、王ご自身でした。祝福ではなく、祝福してくださるお方でした。
神は、御子を慕う者を喜ばれます。主イエスを週末の予定の一部ではなく、生活の中心に据えるとき、ただ従順であるだけでは決して届かない仕方で、あなたは父なる神の心に触れるのです。
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