誰かに不当な扱いを受けたとき、人がまず思うのは、傾いた天秤をもとに戻すことです。正義がほしい。事実をはっきりさせたい。理不尽さの重みを肌で感じながら、それを正そうとして、私たちは自分をすり減らしていきます。

けれども、神が見ていてくださると信じる人は、その仕事を下に置いて、休むことができます。

聖書は、はっとするようなことを語ります。あなたを悩ます者たちのことを神が取り扱ってくださる、それは**正しい**ことなのだ、と。神はあなたに、裁判官になれとも、陪審員になれとも言われません。一歩下がりなさい、そうすればわたしが入っていく、と言われるのです。

「あなたがたを悩ます者には患難をもって報い、悩まされているあなたがたには、わたしたちと共に安息を与えてくださる——それは神にとって正しいことなのです。主イエスが力ある御使たちを率いて天から現れる時に。」 テサロニケ人への第二の手紙 1:6–7 (NKJV より私訳)

ここに描かれているのは、ひとつの交換です。報いの務めは神が引き受けてくださり、あなたは安息という姿勢を引き受ける。

これは、誰かの不幸を願うことではありません。自分で自分を守り続ける、その重荷を下ろすことです。自分の弁護が神にとって「正しいこと」なのだと分かったとき、もともと神のものである戦いから、手を引くことができます。復讐という重い装備は、置いていってよいのです。

正義はあなたの肩には重すぎます。けれども神の肩には、ぴたりと収まります。

勘定を合わせようとするのをやめたその時から、平安は始まります。