守るだけでは、忠実ではありません

わたしたちはしばしば、安全に守ることを忠実さと取り違えます。
ミナのたとえでは、ある身分の高い人が、王位を受けるために遠い国へ旅立ちます。出かける前に、僕たちに金を預け、はっきりとした言いつけを残しました。
帰ってきた主人は、僕たちを一人ずつ確かめます。最初の僕は、一ミナを十ミナにしていました。主人はこれをほめ、十の町を治める権威を与えます。次の僕は一ミナを五ミナにし、五つの町を任されました。
ところが三人目の僕は、安全策を取りました。預かった金を布に包み、しまい込んでいたのです。
彼は、自分は慎重だと思っていました。預かったものを守っているつもりでした。けれども主人は、彼を「悪い僕」と呼びます。
なぜでしょうか。彼を動かしていたのが、実を結ばせる思いではなく、恐れだったからです。
主人は問いかけます。「では、なぜわたしの金を銀行に入れなかったのか。そうすれば、わたしが帰ってきた時、その元金と利子とを引き出したであろうに」(ルカによる福音書 19:23 口語訳)。
ここにある順序に目を留めてください。主人の見方では、銀行に預けることは最低限なのです。それは、投じる力も勇気も持たない者のための下限にすぎません。最も高くほめられるのは、危険を引き受けて増やした者でした。
神があなたに資源を——お金も、賜物も、時間も——委ねられたのは、それを隠しておくためではありません。問題を解き、価値を生み出し、御国の産業を広げるためです。
賜物を地に埋めることは、へりくだりではありません。それは浪費です。
目指すところは、手にしているものを守り抜くことではなく、委ねられたものを増やすことです。
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