「クリスチャンとだけ付き合いなさい」——よく耳にする言葉です。
そのとおり、信仰を分かち合えることは大切です。
けれども、この話はしばしば単純にされすぎています。

少し視野を広げてみましょう。ラハブを見てみましょう。

イスラエルの男性に出会うより前に……
契約の民に嫁ぐより前に……
その名がヘブル人への手紙十一章に記されるより前に……

ラハブの心は、すでにイスラエルの神へと向いていました。

彼女はユダヤ人ではありませんでした。
教会で育ったわけでもありません。
聖書を学ぶ集まりもありませんでした。
それでも彼女は信じたのです。

「主がこの地をあなたがたに賜わったこと、……わたしは知っています。……あなたがたの神、主は上は天、下は地において神であられるからです」
— ヨシュア記 2:9、11 (口語訳)

ここが分かれ目です。

ラハブは、結婚してから「家族に合わせるために」信じたのではありません。
彼女はすでに、神を高く仰いでいました。
すでに心の中で、神にはいと答えていたのです。

そして、私たちが見落としがちなのは、まさにこの一点です。


クリスチャンの独身者への、本当の問い

それは単に、
**「この人はクリスチャンだろうか」**ではありません。

もっと深く、もっと本質を映す問いがあります。
「この人は、神をどう思っているのだろうか」

なぜなら——

結婚を条件に、相手を信仰へ導く?

もちろん、うまくいく場合もあります。心がすでに開かれているなら。
すでに何かが動き始めているなら。
あなたの人生に神がなさっていることを、すでに尊んでいるなら。

けれども、神への渇きがまるでない人を導こうとするなら?
神を知りたいという願いもなく?
あなたの信仰への敬意もないとしたら?

それは、ぐらつく机の上に未来を築くようなものです。

かみ合わない価値観は、一生の摩擦になります。

すべての結婚には第三者が必要です。それがイエスです。
共通の原則、共通の日々の習慣、共通の目的——それらを取り去ってしまえば、
違いの一つひとつが、ずしりと重くのしかかってきます。

アモスは、実に簡潔に問いかけます。

「ふたりの者がもし約束しなければ、共に歩くだろうか」
— アモス書 3:3 (NKJV より私訳)

神の前にへりくだる未信者のほうが、心のかたくなな「クリスチャン」より、信仰に近いのです。

こういう人を、あなたも知っているでしょう。
——「信じている」とは言う
——けれども交わりには加わりたがらない
——神を軽んじている
——弟子として育てられることを拒む
——自分を問われる場を避ける
——変えられることを望まない

関係を救うのは、信仰の肩書きではありません。
神への渇きです。

ラハブに肩書きはありませんでした。
けれども、渇きがありました。


では、交際する人にとって、これは何を意味するのでしょうか

問いの下にある、もう一つの問いを尋ねてください。

「この人は神のほうへ傾いているだろうか。
それとも、神から遠ざかっているだろうか」

将来の結婚は、チェック欄の印の上には建ちません。
向きの上に建つのです。

相手は完全である必要はありません。
けれども、あなたの人生を形づくっておられる神のほうへ、向き直っている必要があります。

ラハブはユダヤ人ではありませんでした——それでも神に向き直りました。

今日、多くの「クリスチャン」は教会にいます——それでも神に背を向けています。

そこに、はっきりとした線があります。
そこが、見分けの目安です。
そこに、決定的な違いがあります。


肩書きを探さないでください。
すでに神へと開かれ始めている心を探してください。
同じ救い主のほうへ向き直る二つの心は、おのずと互いのほうへも向き直っていきます。